発表のポイント
- 自閉スペクトラム症(ASD)知覚体験シミュレータを利用したワークショップに参加することで、参加者がASDに抱くネガティブな感情が改善されることがわかりました。
- シミュレータによってASDの非定型な知覚を体験することで、定型発達者がASDに対してどのような印象を抱くのかは未解明でした。本調査では、ASDに対する態度を多次元的に評価する質問紙を用いることで、ASDの知覚を体験することによる印象の変化を明らかにしました。
- ASD知覚体験シミュレータを用いたワークショップや研修が学校や企業など様々な場所で行われ、ASD者の抱える困難への理解が深まるとともにネガティブな感情が改善されることで、ASD者が自身の可能性を十分に発揮できる社会の実現が期待されます。
ASD知覚体験シミュレータを使用している様子
発表概要
東京大学先端科学技術研究センターの辻田匡葵特任助教、熊谷晋一郎准教授らのグループは、同大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)の長井志江特任教授と株式会社LITALICOが運営するLITALICO研究所の本間美穂研究員らのグループと共同で、自閉スペクトラム症(ASD)(注1)知覚体験シミュレータを利用したワークショップを開催し、定型発達者(注2)がASD者に抱くネガティブな感情がワークショップの参加によって改善されることを明らかにしました。
ASD知覚体験シミュレータは、定型発達者にASD者の知覚している世界を体験しASD者の抱える困難について理解を深めてもらうために開発されましたが、定型発達者がシミュレータを使用することでASDに対してどのような印象を抱くのかは未解明でした。本研究では、ASD知覚体験シミュレータを利用したワークショップを開催し、参加者のASDに対する印象をワークショップの前と後に質問紙によって測定して、ASDに対する印象がどのように変化するのかを調査しました。感情や認知、行動といった様々な次元でASDに対する印象を測ることができる尺度を用いて測定した結果、ワークショップ後のネガティブな感情がワークショップ前よりも低くなっていることがわかりました。このワークショップが学校や企業など様々な場所で行われ、ASD者の抱える困難への理解が深まるとともにネガティブな感情が改善されることで、ASD者が自身の可能性を十分に発揮できる社会の実現が期待されます。
本成果は、2023年8月2日(英国夏時間)に「PLOS ONE」のオンライン版で公開されました。
発表内容
〈研究の背景〉
近年、ASD者が社会的能力だけでなく感覚知覚についても非定型性を有していて、感覚過敏・鈍麻といった困難を抱える場合があることがわかってきています。定型発達者にASD者の知覚している世界を体験しASD者の抱える困難について理解を深めてもらうために、ASD者の視覚世界を体験することができるヘッドマウントディスプレイ型シミュレータ(ASD知覚体験シミュレータ)が開発されました。しかし、定型発達者がシミュレータを使用することでASDに対してどのような印象を抱くのかは未解明でした。障害の体験を通じて差別偏見の改善を試みる研究がこれまでに様々な障害分野で行われてきましたが、障害を体験することで差別偏見が改善する場合もあれば、むしろ悪化してしまうという報告も存在します。本研究では、ASD知覚体験シミュレータを利用したワークショップを開催し、参加者のASDに対する印象を質問紙によって測定して、ASDに対する印象がワークショップの前と後でどのように変化するのかを調査しました。
〈研究の内容〉
ワークショップは、ASD知覚体験シミュレータを利用した視覚体験に加えて、ASDの非定型な知覚に関する講義や、ASD者自身による感覚知覚の困難に関する語りを収録したビデオの視聴、ASD者の知覚を体験した感想などを共有し合う座談会といった内容で構成されました。ASD知覚体験シミュレータを利用した視覚体験では、暗い部屋から明るい屋外へと移動する場面、駅のホームで待っている際に高速で電車が通り過ぎる場面、混雑した大学の食堂で食事をする場面の3つが視聴されました(図1)。
217名の定型発達者がワークショップに参加しました。参加者のASDに対する印象の測定は、ワークショップへの参加登録時、参加当日、参加から6週間後の計3回、質問紙を用いて行われました。参加当日の測定に関しては、ワークショップの効果が反映されるワークショップ直後に測定するグループと、ワークショップの効果が反映されてないワークショップ開始前に測定するグループに分けられました。
質問紙は、4つの下位尺度(不快感情、平静感情、認知、行動)でASDに対する態度を測定できる尺度である多次元態度尺度が用いられました。この尺度では、架空の主人公が初対面のASD者とカフェで交流する場面の物語で構成され、その主人公がどのような態度を経験すると思うかを回答するものです。
各下位尺度について、ワークショップ直後・6週間後の態度をワークショップ参加登録時と比較しました(図2)。その結果、ワークショップ直後の不快感情がワークショップ参加登録時よりも有意に低くなっていることがわかりました。さらに、不快感情の低下が6週間後においても持続していることも確認されました。この結果は、ワークショップに参加してASD者の知覚を体験したり、ASD者の語りに触れたりすることで、ASDに対するネガティブな感情が持続的に低減することを示唆しています。平静感情、認知についてはワークショップへの参加による態度の変化は見られませんでした。行動については、ワークショップ直後には変化がありませんでしたが、ワークショップから6週間後にはワークショップ参加登録時よりもむしろ増加するという結果が見られました。不快感情に関しては6週間後でも低減していることを考慮すると、ASD者に対して差別的に回避行動をとったというよりは、カフェで知り合いではない人とコミュニケーションをとるというASD者にとってストレスフルな場面に対する配慮行動としてこのような回答傾向が見られたと考えられます。
図1:ワークショップで参加者が体験したASD知覚体験シミュレータ
図2:多次元態度尺度の下位尺度毎の結果
〈今後の展望〉
ASD者の有する感覚知覚の非定型性については徐々に社会に浸透してきているものの、ASDの感覚知覚に関する困難を低減させるような配慮が学校や職場、公共施設においていまだ十分に整備されていないのが現状です。また、ASDに対する差別や偏見、ネガティブな印象が社会に根強く残っているために、ASD者が生きづらさを抱える、適切な支援を受けられないといったことが問題となっています。このワークショップが学校の授業や企業の研修といった様々な場面で利用されて、ASD者の抱える感覚知覚に関する困難への理解が深まるとともにASDに対するネガティブな感情が改善されることで、ASD者が自身の可能性を十分に発揮できる社会の実現が期待されます。
発表者
東京大学
先端科学技術研究センター 当事者研究分野
辻田 匡葵(特任助教)
熊谷 晋一郎(准教授)
国際高等研究所 ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)
長井 志江(特任教授)
株式会社LITALICO
本間 美穂(LITALICO研究所 研究員)
論文情報
〈雑誌〉 PLOS ONE
〈題名〉 Comprehensive Intervention for Reducing Stigma of Autism Spectrum Disorders: Incorporating the Experience of Simulated Autistic Perception and Social Contact
〈著者〉 Masaki Tsujita, Miho Homma, Shin-ichiro Kumagaya, Yukie Nagai
〈DOI〉 10.1371/journal.pone.0288586
〈URL〉 https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.02885863
研究助成
本研究は、JST CREST「認知ミラーリング:認知過程の自己理解と社会的共有による発達障害者支援」(課題番号:JPMJCR16E2)の支援により実施されました。
用語解説
(注1)自閉スペクトラム症(ASD)
英語名はAutism Spectrum Disorder(ASD)。発達障害の一種であり、社会的コミュニケーションの困難、限定された行動・興味、反復行動、非定型な感覚といった特徴を持つ。自閉症、自閉症スペクトラム障害、広汎性発達障害、アスペルガー症候群などと呼ばれることもある。
(注2)定型発達者
発達障害ではない多数派の人々。
問合せ先
〈研究に関する問合せ〉
東京大学先端科学技術研究センター 当事者研究分野
特任助教 辻田 匡葵(つじた まさき)