発表のポイント

  •  恐怖を感じたショウジョウバエは、平常時には無関心だった物体から逃走することを見出しました。
  •  脳内の特定神経細胞がシータ活動することが、恐怖を感じたときに視覚物体からの逃走を誘発することが分かりました。
  •  本研究の成果は、恐怖が視覚応答にバイアスを与える普遍的な神経メカニズムの解明につながる可能性があります。

恐怖による視覚応答バイアスを担う神経メカニズム

 


発表概要

 恐怖状態に陥った動物は、しばしば平常状態であれば気にもならないような物体を見ただけで逃げ出すようになります。このような「恐怖による視覚応答バイアス」は、一過的に個体の警戒レベルを上昇させて危機からの回避を促進する行動適応メカニズムであると考えられていますが、その神経メカニズムはほとんど理解されていませんでした。
東京大学大学院理学系研究科の榎本教授らによる研究グループは、恐怖状態に陥ったショウジョウバエが、平常状態であれば無視する視覚刺激から逃走することを見出しました。さらに、タキキニン(Tk)という神経ペプチド(注1)を発現する神経細胞(Tk神経細胞)が、恐怖時にのみ、視覚刺激に応じて周期的な神経活動であるシータ活動(注2)を起こすことを発見しました。さらに、シータ活動を人工的に阻害したり作り出したりする実験により、Tk神経細胞のシータ活動が視覚刺激からの逃走を引き起こすために必要十分であることが分かりました。したがって、Tk神経細胞のシータ活動が、恐怖による視覚応答バイアスを生み出すための基本メカニズムであることが判明しました。Tkやシータ活動は哺乳類においても恐怖応答に重要である可能性が示唆されていることから、本研究の成果は、種間で保存された普遍的なメカニズムの解明につながる可能性があります。

発表内容

 闇夜を独りで歩いている人が、揺れる柳を見ただけでオバケと勘違いして逃げ出す、という話は古典落語にもよく出てくる一節です(図1)。実際、恐怖状態に陥った動物は、平常状態であれば無視するような視覚刺激から逃げるようになることが知られています。このような「恐怖による視覚応答バイアス」は、外界に対する警戒レベルを一過的に上昇させて危険から素早く逃れるために、生物全般に備わっているメカニズムであると考えられています。これまでの研究から、生物の脳の中には、恐怖の中枢と考えられている領域や、視覚刺激を処理する領域がそれぞれ別々に存在することが分かっていますが、恐怖がどのような神経細胞や神経活動を介して視覚応答にバイアスを与えるのかは分かっていませんでした。

図1 恐怖による視覚応答バイアスの一例

 

 この問題を解決するために、本研究グループは、ショウジョウバエに着目しました。ショウジョウバエの脳は約10万個の神経細胞で構成されており、ヒト脳の約10万分の1という極めて小さいサイズですが、運動制御、感覚受容、記憶・学習など、ヒト脳と同等の機能を持ちます。また、ショウジョウバエとヒトとの間では、全遺伝子の約60%が相同(注3)であり、とくに脳神経疾患に関わる遺伝子群は構造・機能ともに強く保存されています。近年では、恐怖などの不快情動を生み出す脳内の仕組みも、ヒトとショウジョウバエで相同であることが分かってきました。そこで本研究では、ショウジョウバエをモデルとして、恐怖による視覚応答バイアスの神経メカニズムについて研究を行いました。

 まず、ショウジョウバエに恐怖刺激を与えると、視覚応答がどのように変動するのかについて調べました。このために、ハエに衝撃波を当てることで恐怖を誘起し、その後に視覚刺激(天敵であるクモと同程度の大きさの黒い四角形)をモニター上に提示できるバーチャルリアリティー装置を開発しました(図2上)。この視覚刺激に対して、平常状態のハエは無反応だった一方で、恐怖刺激を与えたハエは視覚刺激から反対方向へと動く明確な逃走を示しました(図2下)。

 


図2 ショウジョウバエは、平常状態においては視覚刺激を無視するが、恐怖状態においては逃走する
(上)ショウジョウバエのバーチャルリアリティー装置。ショウジョウバエは空気により浮かせたボール上を自由に歩くことができ、その様子をショウジョウバエ上部のカメラで記録できる。同時に、ショウジョウバエを取り囲むモニター上に視覚刺激(天敵であるクモと同程度の大きさの黒い四角形)を提示できる。さらに、ショウジョウバエ前面に設置されたガラス管から、衝撃波を与えることができる。(下)ショウジョウバエは、視覚情報を提示すると、平常時は無反応だが、恐怖時には逃走を示す。


 それでは、この視覚応答バイアスは、どのような神経細胞により実行されるのでしょうか?神経細胞には様々な種類があり、種類ごとに異なる物質を放出する性質をもちます。したがって、視覚応答バイアスに重要な物質を特定できれば、その物質を放出する神経細胞も、同様に重要である可能性が高いと考えられます。そこで、様々な物質を欠損した突然変異体(注4)の行動を観察したところ、神経ペプチドであるTkを欠損したハエは、恐怖状態を誘起しても、平常状態と同様に視覚刺激から逃げないことが分かりました。さらに別の実験から、脳内にある30個ほどのTk発現神経細胞が、視覚応答バイアスに必須であることも分かりました。本発表では、これらの神経細胞のことをTk神経細胞と呼びます。

 神経細胞は一般に、神経活動の量(発火の頻度)やパターン(不規則に発火するのか、あるいは規則的、周期的に発火するのか?)を変化させることによって、次の神経細胞に情報を伝達します。では、Tk神経細胞は、恐怖や視覚刺激に応じてどのような神経活動を示すのでしょうか?これを検証するために、神経細胞の活動を蛍光輝度に反映させる、改変型GFP(GCaMP)(注5)を発現させました。その結果、Tk神経細胞は恐怖に伴って活動量を上昇させることが分かりました。さらに面白いことに、Tk神経細胞は恐怖状態においてのみ、視覚刺激に応じて周期的活動の1種であるシータ活動を示すことが分かりました(図3)。

図3 視覚応答の恐怖支配を司る神経メカニズム

 そこで最後に因果関係を理解するために、シータ活動が視覚刺激からの逃走を引き起こすのか、を検証する実験を行いました。そのために、光を照射することで神経細胞の活動量を上昇させる、光遺伝学(注6)という手法を用いました。この光遺伝学を用いれば、光を周期的に照射することにより、Tk神経細胞のシータ活動を人為的に誘発することができます。その結果、Tk神経細胞のシータ活動を誘発するだけで、平常状態のハエであっても、視覚刺激から逃走することが分かりました。

 以上の結果から、恐怖による視覚応答バイアスは、Tk神経細胞のシータ活動により駆動されることが明らかになりました。本研究において同定した神経ペプチドTkは、げっ歯類(注7)やヒトにおいても恐怖行動との関連が示唆されています。加えて、シータ活動はヒトで古典的に測定されてきた脳波の一種であり、ヒトやげっ歯類において恐怖や視覚情報の受容に応じて活性化することも分かっています。本研究の成果は、種間で共通した「視覚応答の行動バイアス制御メカニズム」の解明につながる可能性があると考えています。

発表者

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻
辻  真人(助教)
西塚 悠人(博士課程)
榎本 和生(教授)<ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) 副機構長・主任研究者>

論文情報

〈雑誌〉Nature Communications
〈題名〉Threat gates visual aversion via theta activity in Tachykinergic neurons
〈著者〉Masato Tsuji, Yuto Nishizuka, *Kazuo Emoto
〈DOI〉10.1038/s41467-023-39667-z 
〈URL〉https://www.nature.com/articles/s41467-023-39667-z

研究助成

本研究は、科研費「スクラップ&ビルドによる脳機能の動的制御(課題番号16H06456)領域代表:榎本和生」、「神経回路の組織化と維持・管理を担う分子細胞基盤(課題番号16H02504)研究代表:榎本和生」、AMED-CREST「痛覚感受性の組織発達制御メカニズムの包括的理解と新規研究プラットフォーム創出を目指した研究(課題番号JP21gm1310010)研究代表:榎本和生」のサポートにより実施されました。

用語解説

(注1)神経ペプチド
少数アミノ酸が結合したペプチド分子のうち、特に神経細胞から放出されるもの。

(注2)シータ活動
神経細胞の大きな特徴の1つに「神経活動」がある。神経活動の実体は、膜電位を急速に反転させる「発火」という現象である。神経細胞が発火すると、この情報がシナプスという構造を介して隣り合う神経細胞に伝えられる。このような伝達が隣り合う神経細胞間において次々に起きることで、情報が適切に処理されていく。神経細胞の種類によって発火の頻度やパターン(不規則に発火するのか、あるいは規則的、周期的に発火するのか?)は様々である。特に、4-8Hz程度の周波数で発火する周期的な発火は、シータ活動と呼ばれる。

(注3)相同
共通の祖先に由来すること。

(注4)突然変異体
特定の遺伝子のDNA配列が変化し、遺伝子の機能に変化が生じた生き物のこと。特に本発表においては、神経細胞が放出する物質の1種である、神経ペプチド(注1)をコードする遺伝子を欠損した(神経ペプチドを産生できない)変異体のことを指す。

(注5)GCaMP
緑色蛍光タンパク質(GFP)の改変型であり、カルシウムイオンと結合すると蛍光輝度が上昇する。神経活動は細胞内カルシウムイオン濃度の上昇を伴うため、GCaMPの蛍光輝度から神経活動量を推定することができる。

(注6)光遺伝学
光を用いてタンパク質の活性を制御する手法の総称である。特に、チャネルロドプシンと呼ばれるタンパク質やその変異種を標的の神経細胞に発現させれば、光を照射することで標的神経細胞の活動量を上昇させることができる。

(注7)げっ歯類
哺乳網ネズミ目のことで、ネズミなどを代表とする。

問合せ先

〈研究に関する問合せ〉
東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻
教授 榎本 和生(えもと かずお)

〈報道に関する問合せ〉
東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室

東京大学国際高等研究所 ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)