1. 発表者:
石川 夏子(研究当時:東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻 博士課程3年生)
酒井 萌花(研究当時:東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻 修士課程2年生)
榎本 和生(東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻 教授/東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)副機構長・主任研究者)
2. 発表のポイント:
◆ショウジョウバエ幼虫が不快な刺激を受けたときに、その場から後退して逃げるための脳神経回路を発見した。
◆不快な感覚情報を異なる複数の受容器により受容し、その情報を脳内で統合して後退運動へと変換する仕組みを神経回路レベルで初めて解明した。
◆複数の行動パターンの中から、状況に応じて最適な行動を選択する行動選択の神経回路メカニズムの解明に繋がることが期待される。
3.発表概要:
生物は、自分が置かれた状況に応じて、最も適切な行動を選択することができます。例えば、ショウジョウバエ幼虫は、嫌な刺激や対象物に出会うと、はじめは前進運動や回転運動により刺激や対象から遠ざかろうとしますが、それでも逃げきれないときには、後退運動を使って対象から逃れようとします。つまり、前進運動や回転運動では逃げきれないという条件下において初めて、後退運動という「行動選択」を行います。このような行動選択の仕組みは、その生物が生まれながらに脳神経回路に組み込まれていると想定されますが、これまで具体的な仕組みはほとんど理解されていません。東京大学大学院理学系研究科の石川夏子大学院生、酒井萌花大学院生、榎本和生教授らは、ショウジョウバエ幼虫が嫌な刺激を受けたときに後退運動を誘導する脳神経回路の全容を初めて明らかにしました。これまでに研究グループは、ショウジョウバエ幼虫が嫌な刺激を受けたときに回転運動など他の逃避行動を生み出す脳神経回路を同定しています。本研究成果は、異なる逃避行動の中から、状況に応じて最も適切な行動を選択する「行動選択」の神経回路メカニズムの解明に繋がることが期待されます。
4.発表内容:
1973年にノーベル生理学・医学賞を受賞したニコ・ティンバーゲン博士は、トゲウオの闘争行動の研究から、生物が状況に応じて適切な行動を選択するための仕組みとして「生得的解発機構」(注1)をいう概念を提唱しました。さらに、特定の行動を制御する神経回路は独立したモジュールから成り、モジュール間の抑制的もしくは相乗的な相互作用により出力する行動が決まるというモジュール仮説を提唱しています。しかし今日まで至るまで、生得的解発機構やモジュール仮説を神経回路レベルで検証された例はほとんどありません。
東京大学大学院理学系研究科の石川夏子大学院生、酒井萌花大学院生、榎本和生教授らの研究グループは、ショウジョウバエ幼虫を解析モデルとして、行動選択を担う神経回路メカニズムの研究を行なってきました。ショウジョウバエ幼虫は、機械刺激や光刺激など嫌な刺激を頭部に与えると、前進運動、回転運動、後退運動など複数の異なる行動を状況に応じて使い分けることにより、嫌な対象から出来るだけ早く離れようとします。このときショウジョウバエ幼虫は、状況に応じて、複数の行動の中から適切な逃避行動を選択することができます。例えば、幼虫は、単一回数の不快刺激を頭部に受けたときには、前進運動や回転運動を使ってその場から回避し、後退運動はほとんど使いません。ところが、幼虫が連続して不快刺激を頭部に受け続けると、後退運動を使って逃げようとします。このような状況に応じた「行動選択」は、外部からの情報を脳神経回路において統合し、その情報に基づいていずれの行動を選択するのが最適かの判断が下され、最終的に神経回路を活動させることにより、特定の行動が表出されると考えられますが、具体的にどのような脳神経回路により行動選択が実行されているのかは理解されていません。研究チームは、光遺伝学(注2)を用いて、ショウジョウバエ幼虫脳内の少数の神経細胞を人工的に活性化する手法を確立し、その手法を用いて、ショウジョウバエ幼虫に後退運動を引き起こすことができる「後退神経細胞群」を網羅的に同定し、さらに同定した神経細胞間のネットワーク様式を決定することに成功しました。
ショウジョウバエ幼虫が嫌う青色光は、頭部光受容器と体表全体に存在する表皮痛覚神経細胞の両者により受容されることが知られています(図1)。青色光刺激に対する「後退神経細胞群」の応答を調べた結果、異なる感覚器から入力した青色光の情報は、異なる神経回路を通り、最終的に1つの神経細胞に収束されることがわかりました。したがって、異なる受容器により受容した青色光シグナルは、異なる神経回路を経由して1つのハブ神経細胞に収束し、そのハブ神経細胞の活動が運動神経細胞の活動を制御することにより、最終的に後退運動へと変換されることがわかりました(図2)。以上の成果により、忌避的な光情報を後退運動へと変換する神経回路モジュールの大まかな全体像が明らかになりました。
本研究において、不快な感覚情報を統合して後退運動へと変換する脳神経回路メカニズムが明らかになったことにより、前進運動、回転運動、後退運動など異なる逃避行動をそれぞれ制御する基本回路メカニズムを明らかにすることができました。これらの発見により、今後、行動選択の仕組みを回路レベルにおいて検証するための実験的素地が整ってきたと考えられます。ショウジョウバエ幼虫の脳は、約1万個の神経細胞から構成される比較的シンプルな構造であり、近年のコネクトーム解析から神経細胞間の全ネットワークも電子顕微鏡レベルで明らかにされていることから、神経細胞から神経回路、行動制御までをつなぐ研究を行うために非常に有望な研究材料だと考えられます。将来的には、ショウジョウバエ幼虫モデルが、行動選択の神経回路メカニズム解明に貢献することが期待されます。
5.発表雑誌:
雑誌名:PLoS Genetics
論文タイトル:A pair of ascending neurons in the subesophageal zone mediates aversive sensory inputs-evoked backward locomotion in Drosophila larvae.
著者:Natsuko Omamiuda-Ishikawa, Moeka Sakai, & Kazuo Emoto*
DOI番号:https://journals.plos.org/plosgenetics/article?id=10.1371/journal.pgen.1009120
6.問い合わせ先:
(研究に関すること)
東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻/
国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)
教授/副機構長・主任研究者 榎本 和生(えもと かずお)
(報道に関すること)
東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室
東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)
広報担当
7.用語解説:
(注1)生得的解発機構
特定の刺激を知覚した生物がこれに対応した一連の固定的な行動をとるという固定的動作パターンを説明するために、ティンバーゲンとローレンツ(ともに1973年ノーベル生理学・医学賞受賞)が提唱した概念である。
(注2)光遺伝学
人工的に脳内の特定神経細胞を特定のパターンで活動させることができる技術である。具体的には、藻類クラミドモナス由来のチャネルロドプシン蛋白質を特定の神経細胞に発現させておいて、そこに光(450nmから610nm程度の照射光)を照射すると、照射パターンに応答してチャネルロドプシン開口して、細胞外から陽イオンが流入することにより神経細胞が活動する。
8.添付資料: