邦楽家の脳:日本伝統音楽「雅楽」を聴くことの意義を神経生理学的に探る

1. 発表者:

大黒 達也(東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) 特任助教)
湯本 真人(東京大学大学院医学系研究科内科学専攻病態診断医学 講師(研究当時))

2. 発表のポイント:

◆世界で初めて日本伝統音楽「邦楽」の演奏家の脳内処理機構を明らかにした。
◆教育経験や音楽文化によって脳の発達の仕方も変化することが示唆された。
◆伝統音楽の教育により、一般的な音楽教育では発達しないような脳機能が発達する可能性がある。多様性を受け入れ、様々な文化を享受できる社会の設計が重要である。

3.発表概要:

 近年、様々な研究機関によって音楽と脳の関係性が明らかになってきている。特に、特別な音楽教育を受けてきたような音楽家は脳の聴覚機能が発達し、それに伴って言語聴覚機能も向上することが多くの研究で報告されている。しかし、これまで明らかにされてきたことの殆どが西洋音楽に関わるものであり、日本の伝統音楽(雅楽等)がヒトの脳にどのような効果をもたらすのかに関してはわからないことが多い。東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)の大黒達也特任助教と同大学医学系研究科の湯本真人講師(現所属:群馬パース大学附属研究所先端医療科学研究センター 教授)は、邦楽家、西洋音楽家、非音楽家各10名を対象に、拍(ビート)有り、拍無しのリズム音列聴取時の聴覚脳磁場応答(注1)を計測した。その結果、非音楽家と音楽家間だけでなく、西洋音楽家と邦楽家間においても、リズムの聴覚機能に違いが現れた。邦楽は、普段我々が頻繁に耳にするようなポップスやクラシック音楽(西洋音楽)に比べて、拍が数学的に不規則であることが知られている。このことから、普段我々が耳にしづらい伝統音楽の教育により、一般的な音楽教育だけでは発達しないような脳機能が発達する可能性がある。現在、科学や社会の発展につれて、古来から継承されてきたような文化が徐々に衰退してきている。しかし、本研究の結果を受けて我々の脳機能を高め、本来持っているような個性を伸ばしていくためには、多様性を受け入れ、様々な文化を享受できる社会の設計が重要と考えられる。

4.発表内容:

1. 背景
 近年、音楽聴取に関わる脳システム解明の重要性は世界的に認知されつつある。特に、特別な音楽教育を受けてきたような音楽家は脳の聴覚機能が発達し、それに伴って言語聴覚機能も向上することが多くの研究で報告されている(Francois et al., 2011)。しかし、これまで明らかにされてきたことの殆どが一般的な西洋音楽理論に基づいた音楽(クラシックやポップス)に関わることであり、日本伝統音楽の「邦楽」(雅楽等)がヒトの脳にどのような効果をもたらすのかに関しては未だわからないことが多い。
 西洋音楽と邦楽の違いを挙げるならば、まず第一に「間」のとり方が挙げられるだろう。西洋音楽のリズムは、拍(ビート)という基本的には崩されることがない規則的な時間間隔を用いている。それに対して邦楽は、独自の「間」という不規則な時間間隔で表現する音楽である。邦楽も西洋音楽的なリズムを基調として持っているが、西洋音楽のような数学的規則性のある時間だけではなく、呼吸の同調によって伸縮するような時間の概念があるといわれている。時間感覚認知に関わる神経学的研究はこれまでも多く報告されているが、日本文化的な「間」の認知に関わる研究は、知る限りでは報告されていない。これは、「間」というものが、西洋音楽の拍のような数学的定義を持たない抽象的な概念であり、科学的検証が困難であることも理由の一つとして挙げられる。研究者らは、この日本独特の「間」をとる学習を特別に訓練してきた邦楽家では、そうでない者に比べてリズムの脳内処理メカニズムが違うのではないかと考えた。
 先行研究によると、人間の脳には、意識や注意に依存せずに発動する、統計学習システムが生得的に備わっているといわれている(Saffran, 1996)。これは、系列情報の遷移確率を意識下で脳が計算し学習するシステムであり、その潜在性故に、学習者本人は学習した知識に自身の行動が左右されていることに気づかないが、これまでの研究により統計学習効果を神経生理的に評価できる事が解っている(Daikoku, 2018)。また,統計学習は新生児から大人まで行われる脳の発達に重要な機能でもあり、言語、音楽に依らず発動する普遍的な学習システムである。その普遍性故に、音楽を早期から特別に教育を受けた人(音楽家)は音楽の統計学習機能は発達しており、それに伴って言語の統計学習能力も高くなることが示唆されている。さらに、言語障害を音楽で改善したり、乳幼児に対して音楽を用いて言語学習を促進したりといった効果も確認されており(Elmer et al., 2018)、統計学習は我々の脳の発達メカニズムを理解する上で最も重要な機能の一つといわれている。本研究では、日本独特の「間」をとる学習を特別に訓練した脳の発達基盤を明らかにすべく、邦楽家(雅楽等)、西洋音楽家(クラシック)、非音楽家間で、脳のリズム統計学習機能にどのような違いがあるかを検討した。

2. 内容
 10名の邦楽家、10名の西洋音楽家、10名の非音楽家を対象に、拍(ビート)有り、拍無しのリズム音列聴取時の聴覚脳磁場応答(Magnetoencephalography: MEG,図)(注1)を計測した。その結果、非音楽家に比べ、音楽家では脳のリズム統計学習機能が発達していることが示された。この結果から、より早期からの音楽教育によって脳のリズム認知機能が促進する可能性が示された。また、西洋音楽家と邦楽家間においては、リズムの複雑性や不確実性(不規則性)を認識する機能に違いが現れた。邦楽は、西洋音楽に比べて拍が数学的に不規則(不確実)であることが知られている。このことから、普段我々が耳にしづらい伝統音楽の教育により、一般的な音楽教育では発達しないような脳機能が発達する可能性がある。

3.社会的意義
 科学や社会の発展につれ徐々に衰退していくような伝統音楽を聴取することにより、普段から聴き慣れている音楽だけでは発達しないような脳機能が発達する可能性がある。本研究は、特有の個性をもつ伝統や文化を享受する重要性を神経生理学的に示した。
 また、西洋文化と日本文化のリズムの違いの関係性は、音楽だけでなく言語においても同様である。例えば、英語のリズムは「強勢拍リズム」に分類される。強勢拍リズムとは、文中の強勢アクセントから次の強勢アクセントまでの時間が等間隔になるように刻まれ、音楽の拍のようなリズムといえる。一方、日本語のリズムは「モーラ拍リズム」に分類される。日本語のモーラは、かな1文字分に相当し、モーラと次のモーラまでの時間が等間隔になるように刻まれる。日本語のかなは、英語の音節(子音から子音への一渡り)を一つだけ含むものもあれば複数含むものもある。音節が最小の音声認識単位であるところの英語の歌は、音節を繋ぐものとしてのビートやリズムによって構成される。それに対して、カナ一文字が最小の音声認識単位であるところの日本語の歌は、モーラと間によって構成される。このように音楽と言語に共通して、英語圏の文化は、日本のものに比べ、規則的なリズムや拍が強い。先行研究によると、西洋音楽的なリズム感が良い人は、強勢拍リズムをもつ第2言語(英語やドイツ語)を習得するスキルも高いといわれている(Tierney et al., 2013)。このことから、文化が普遍的にもつ感覚や感性が、言語や音楽、そしてそれに帰属する脳機能を独自に発達させてきたと考えることもできる。現在、科学や社会の発展につれ、古来から継承されてきたような文化が徐々に衰退してきている。全ての場所で同じようなものを享受できるのは確かに便利ではあるが、それによって個人や文化が本来持っている個性が失われてしまう可能性もある。本研究の結果を受けて、様々な個性が調和した多様性社会を築いていくためには、一文化ではなく、あらゆる文化を享受できるような環境が重要であると考えられる。

5.発表雑誌:

雑誌名:Neuropsychologia
論文タイトル:Musical Expertise Facilitates Statistical Learning Of Rhythm And The Perceptive Uncertainty: A Cross-Cultural Study
著者:Tatsuya Daikoku, Masato Yumoto
DOI番号:doi.org/10.1016/j.neuropsychologia.2020.107553

6.問い合わせ先:

【研究に関する問い合わせ先】
東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)
特任助教 大黒 達也(だいこく たつや)

【広報担当者問い合わせ先】
東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)
佐竹 真由紀(さたけ まゆき)
E-mail:pr@ircn.jp

7.用語解説:

(注1)Magnetoencephalography(MEG、脳磁図):脳の電気的な活動によって生じる磁界を計測するイメージング技術

8.添付資料:


図. 聴覚脳磁場応答P1mの統計学習効果 P1mの位置と向き(上)と波形(下)。脳が統計学習をすることにより、予測しやすい刺激に対する神経応答は(黒)、予測しづらい刺激に対する神経応答(赤)に比べてP1mの振幅が弱くなる。

9. その他:

本研究は以下の事業による支援を受けて行われました。
サントリー文化財団、花王芸術・科学財団、カワイサウンド技術・音楽振興財団