国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター(NCNP)神経研究所 微細構造研究部の一戸紀孝 部長、精神保健研究所 児童・予防精神医学研究部の松元まどか 室長(現:京都大学 京都大学 医学研究科附属脳機能総合研究センター 臨床脳生理学分野 特定准教授)、飯島和樹 研究員、東京大学 国際高等研究所 ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)のZenas Chao准教授、東京工業大学 科学技術創成研究院の小松三佐子 特任准教授(理化学研究所 脳神経科学研究センター 触知覚生理学研究チーム 客員研究員)らの研究グループは、自閉スペクトラム症(自閉症)モデルマーモセットを用い、脳の階層にわたる予測符号化異常のメカニズムを解明しました。この発見は、自閉症の新たな行動介入法の開発や、診断をサポートするバイオマーカーの特定に大きく寄与する可能性があります。
本研究成果は日本時間2024年7月12日に、米国のオンライン総合学術雑誌「Communications Biology」にon-line掲載されました。
■研究の背景
予測符号化とは、脳が過去の経験に基づいて外界の予測を生成し、この予測と実際の感覚入力との間の不一致(予測エラー)を使用して外界の予測を継続的に更新する理論です。この理論は、脳が外部の感覚入力をどのように処理して環境に効率的に適応するのかについてこれまでの理解を一新する魅力的な枠組みです。この繰り返しプロセスにより、脳は理解を洗練させ、将来の出来事をより正確に予測・判断することができるようになります。図1は、予測符号化の基本的な概念とメカニズムを説明しています。脳がこれらの予測を高次の脳領域から低次の脳領域へとどのように伝達し、環境からの感覚入力を統合して期待を調整するのかを説明しています。トップダウンの予測とボトムアップの感覚入力との間のこの動的な相互作用は、私たちの知覚体験を連続的に洗練させることに役立ちます。このように、予測符号化は認知神経科学、心理学、神経学の分野に革新をもたらし、私たちの脳の働きを理解し深める上で欠かせない理論的基盤となっています。
例として、都会の街角と山奥でクマのシルエットを見たときの認識の仕方を考えてみましょう(図2)。都会の街角でクマのシルエットを見たとき、多くの人の初期の予測は「はくせい」(動かないクマ)かもしれません。一方、山奥でクマのシルエットを見たときの初期の予測は「ほんもの」(動くクマ)でしょう。このように、最初の予測は環境や過去の経験に基づいて異なります。つまり、それぞれの予測信号が異なります。都会ではクマのシルエットが動かないという予測信号が強くなり(動かないクマのシルエット)、山奥ではクマが動く可能性が高いという予測信号が強くなります(動くクマのシルエット)。しかし、実際の感覚入力としてクマのシルエットが動くことがあります(動くクマのシルエット)。このとき、都会でクマが動いた場合、「動いた!」という大きな予測エラーシグナルが生じます。これは初期の予測と感覚入力が大きく異なるためです。一方、山奥でクマが動いた場合、「やっぱり動いた」という小さな予測エラーシグナルが生じます。こちらは初期の予測と感覚入力が一致するためです。これらの予測と予測エラーがスムーズに情報交換を行い、脳は必要に応じて予測を素早く適切に変更していきます。都会ではクマが動くという新しい情報に驚き、「ほんものだ!」という新しい予測が形成され、山奥では予測が確認され、「やっぱりほんものだ」という認識が強化されます。このように、予測符号化はトップダウンの予測とボトムアップの感覚入力との間の動的な相互作用を通じて、私たちの知覚体験を連続的に洗練させます。
自閉スペクトラム症(自閉症)は、社会的コミュニケーションや行動における持続的な困難さ、ならびに限られた興味や反復する行動を特徴とする発達障害です。自閉症の症状は、個人によって大きく異なり、言語発達の遅れや感覚過敏、柔軟性の欠如などが含まれます。自閉症においては、この予測符号化の過程に異常があるという仮説が提唱されてきました。自閉症の人々は、予測と予測エラーの調節がスムーズではないために、対人関係をうまく調整するために必要な、複雑な人間関係や次々と変化する状況に素早く適切に対処することが難しい場合があります。例えば、相手の表情を正確に予測・解釈することが困難であるため、結果として空気が読めないといった自閉症的な困難さに直面する可能性が高まります。また、予測符号化の不調は、予測が容易な行動や興味の限定化、つまり自閉症の固執性・繰り返し行動とも関連していると考えられています。これらの行動は、予測が困難な状況を避けるための戦略として理解でき、結果として予測誤差を最小限に抑えようとするものです。
実際にどのように自閉症の予測符号化過程に異常があるのかは、長い間明らかにされていませんでした。今回、研究者らは自閉症モデルの小型霊長類マーモセット(※1)を用いて、予測符号化の異常を調べました。具体的には、いろいろな確率で現れるトーンをマーモセットに聞かせ、その大脳皮質全体を覆う皮質脳波(ECoG)電極(※2)で検出した脳活動を記録し、予測符号化理論に基づいたモデルを用いて、記録した脳活動についてデータ解析を行いました。
■研究内容
研究チームは、バルプロ酸を母体に投与して自閉症モデルマーモセットを作成し、96チャンネルの大脳皮質外側面全体を覆う皮質脳波電極を留置しました。バルプロ酸は抗てんかん薬で、母親が妊娠中に飲むことにより自閉症のリスクが上がることが知られおり、研究者たちはこれまでに同様な方法で自閉症マーモセットを作出し、その行動と脳の分子特性がヒトの自閉症として高い妥当性があることを見いだしてきました。
<タスクデザイン>
今回の研究では、マーモセットは以下の連続したトーンのセットを脳波記録中に聞きました。トーンのセットは一定のトーンxが5回連続して出るxxシーケンスと、トーンxが4回連続した最後に別なトーンyがくるxyシーケンスで構成されました(図3A)。ヒトもマーモセットも連続して同じトーンが来ると、次も同じトーンがくるという予測期待を高めることが知られており、最後に別なトーンが来ると大きな予測エラーが出ると考えられます。さらに、今回は予測と予測エラーの脳の計算をよりよく知るために、2つのxxとxyシーケンスが、別々な確率で現れるxxブロックとxyブロックを用いました。xxブロックはxxシーケンスが80%の確率でランダムに現れ、xyブロックは反対にxyブロックが80%の確率で現れます。xxブロックではトーンyの出現頻度がさらに小さいので、yの予測期待が脳で小さくなることが予想され、yに対する予測エラーが、よりトーンyの出現頻度が高いxyブロックよりも大きくなることが期待されます(図3B)。
<実際の記録>
研究チームの当初の予想通り、xxブロックにおいて対照マーモセットも自閉症マーモセットもともに、xxシーケンスでの脳の神経活動からxyシーケンスでの脳の神経活動を引き算すると5番目のトーンの後に、大きな電気活動の差が出ました(図3A、図4左上)。また対照群では、全ての個体でxyブロックのほうでxxブロックよりも5番目のトーンの後のyとxへの反応の差が小さいことが分かりました(図4対照群A)。これに対して自閉症モデルマーモセットの一頭(自閉症A)は5番目のyへの反応とxへの反応ヘの差はxyブロックとxxブロックとでそれほど違いがありませんでした(図4自閉症A)。これは自閉症Aが全体のパターンの情報から計算される予測をうまくつかえておらず、常に驚きをもってyに反応していることを示唆しています。これは自閉症の知覚・聴覚過敏と関連している可能性があります。さらにもう一頭の自閉症モデルマーモセット(自閉症B)は5番目のyへの反応とxへの反応ヘの差はxyブロックでマイナスになるという驚くべきパターンを示しました(矢印)(図4自閉症B)。これは自閉症Bが全体のパターンに引きずられて、xxxxの後にyが来るというパターンの予測を上げた結果、xxxxの後にxが来るほうを驚きとして捉えた可能性を示唆しています。これは自閉症の思い込みの強さとの関連がうかがわれます。
<理論的モデル>
このデータを用いて定量的にマーモセットの脳の予測符号化機構を評価するために、以下のようなモデルを構築しました。このモデルは3つの階層レベル(レベルS、レベル1、レベル2)と2つの検知系(x検知系とy検知系)から構成されます。レベルSはトーン入力を受信する一番下の感覚レベルで、レベル1は5個のトーンからなるシーケンスの局所的なx, yの出現頻度に基づく規則性を学習・符号化し、レベル2はブロック内でのxxシーケンスとxyシーケンスの割合という大域的な規則性を学習・符号化します。レベルSは感覚入力を受信し、レベル1からの予測1を引き算して、予測エラー1をレベル1に送り返します。レベル1はレベルSからの予測エラー1を受けて、レベル2からの予測を引いて、予測エラー2を出力します。2つの検知系の各レベルの予測はx, yの局所的な出現遷移確率とブロック内のシーケンス確率から数学的に計算されます。さらに自閉症マーモセットの感覚感度と各階層的予測の隠れた状態・隠れた変数を評価するために、各レベルにわたってモデルにいくつかの係数を加えました。レベルSでは、繰り返されるトーンxに対する順応を考慮して、感覚入力にスケーリング係数S0を加えました。係数S0は、0から1の値をとり、大きいほど感覚入力の減衰が小さく感覚過敏状態を生み出すと考えられます。レベル1と2では、不完全な予測を考慮するために、第1レベルの予測と第2レベルの予測に、それぞれスケーリング係数s1 、s2 を加えました。 s1 = 1 および s2 = 1 のとき,予測は最適と考えられます。s1 < 1 または s2 < 1 のとき、「低予測」であり、予測の利用が不十分なことを意味します。 s1 > 1 または s1 > 1 の場合、「ハイパー予測」となり、予測が過剰に用いられることを意味します。
<モデル解析の結果:自閉症マーモセットは過敏でかつ予測がうまく使えない>
フィッティング法を用いて、マーモセットから得られた実際の脳活動と最もよく一致する係数をマーモセットごとに計算しました。その結果、対照群の3頭は感覚減衰の指数であるS0は約0.4でしたが、自閉症A, BはそれぞれS0が0.75, 0.95と大きな値で感覚減衰が小さく感覚過敏性がありました。また対照群は3頭ともS1, S2が0.7以上と、適正値の1に近かったにも関わらず、自閉症AはS1, S2がそれぞれ0.3,0.2と、予測が「過小」に使われていることが分かりました。これは自閉症Aがxyブロックにおいても、トーンyに対して強い反応を保持していたことの背景にあると考えられます。また、自閉症BはS2が1.7と予測が「過剰」に使われており、これが自閉症Bがxyブロックでトーンxに対してトーンyよりも強い反応を示していたことのメカニズムと考えられます。
<自閉症マーモセットは予測が不安定>
さらに研究者らは、平均ではなく試行ごとの予測エラー1, 2の強さの分布を各個体で調べたところ、どちらの予測エラーともに、対照群は狭い範囲に強さが分布しており、予測の安定性がうかがわれました。これに対して自閉症モデル群はA, Bともに幅の広い分布を示し、一回ごとの予測が不安定であることが示されました。不安定な予測は、持続的で一貫した認知・行動に障害をもたらすと考えられます。また、これは理論的に主張されていた自閉症の「予測精度の低さ」という概念と一致します。
■研究結果のまとめ
この研究で、自閉症のマーモセットの脳では、繰り返し与えられる刺激に対して、健常なマーモセットのように慣れていくことが難しいことが分かりました。また、脳の中で行われる予測も不安定で、精度が低いことが明らかになりました。
興味深いことに、自閉症のマーモセットの間では、脳の中での予測の使われ方に大きな個体差があることが分かりました。ある自閉症のマーモセットでは、予測に引き込まれすぎてしまい、実際の感覚情報よりも予測を重視しすぎてしまうことがありました。一方で、別の自閉症のマーモセットでは、予測をうまく取り込めず、予測と実際の感覚情報を適切に組み合わせることが難しいようでした。つまり、自閉症のマーモセットでは、脳の中での予測がうまく使われていないということが示されましたが、その現れ方は個体によって大きく異なっていたのです。この研究結果は、自閉症のさまざまな症状が、脳の中での予測の仕組みの問題と関係する可能性を示唆しています。また、自閉症の人々の間でも、予測の使われ方に大きな個人差があるかもしれません。
この研究は、脳の中での予測の仕組みと自閉症の症状を結びつけることで、自閉症の複雑な原因を理解するための新しい方法を見つける可能性を示しています。これは、今後の自閉症研究にとって重要な発見だと言えます。
■今後の展望
この研究で使われた方法は、人間の自閉症でも、脳の中の予測の仕組みがどのように異なるかを明らかにする手法を提供します。また、今回の研究で見つかった自閉症のマーモセットの間での予測の使われ方の大きな違いは、人間の自閉症でも、いくつかのグループに分けられる可能性を示唆しています。これは、それぞれの自閉症の人に合わせた、より効果的な治療法や支援方法の開発につながると期待されます。
今後、この研究で得られた知見を元に、人間の自閉症の理解がさらに深まり、一人一人に合った支援や治療法が開発されていくことが期待されます。
■用語の説明
(※1) コモンマーモセット
南米原産の小型のサル(200-300g)で、両親が協力して子育てをする社会性に優れた霊長類です。また、アイコンタクトや、多様な鳴き声を用いてコミュニケーションをするというヒトと類似した社会行動特性を持ちます。また脳の形態・機能がヒトと似ていて発達した大脳皮質を持ちます。
■原著論文情報
・ 論文名:Erroneous predictive coding across brain hierarchies in a non-human primate model of autism spectrum disorder
・ 著者名 Zenas Chao, Misako Komatsu, Madoka Matsumoto, Kazuki Iijima, Keiko Nakagaki, Noritaka Ichinohe
・掲載誌: Communications Biology
・doi: 10.1038/s42003-024-06545-3
・https:https://www.nature.com/articles/s42003-024-06545-3?utm_source=rct_congratemailt&utm_medium=email&utm_campaign=oa_20240712&utm_content
■研究グループ
・国立精神・神経医療研究センター
神経研究所微細構造研究部 一戸紀孝、中垣慶子
精神保健研究所 児童・予防精神医学研究部 松元まどか(現:京都大学 医学研究科附属脳機能総合研究センター 臨床脳生理学分野 特定准教授)、飯島和樹 (現:玉川大学)
・東京大学
国際高等研究所 ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) Zenas Chao
・東京工業大学
科学技術創成研究院 小松三佐子
(理化学研究所 脳神経科学研究センター 触知覚生理学研究チーム 客員研究員)
■研究経費
本研究成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって行われました。
国立精神・神経医療研究センター精神・神経疾患研究開発費 「発達障害の治療法の確立をめざすトランスレーショナルリサーチ」 (2-7) 「霊長類モデル動物を用いた脳神経機能及びその疾患に関する基盤的研究」(5-8):日本医療研究開発機構(AMED)「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明(革新脳)」の「脳科学研究に最適な実験動物としてのコモンマーモセット:繁殖・飼育・供給方法に関する研究」(JP23dm0207066) 「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明(中核拠点)」(JP20dm0207001)「双方向トランスレーショナルアプローチによる精神疾患の脳予測性障害機序に関する研究開発」(JP20dm0207069)日本学術振興会(JSPS)の学術変革領域研究(A)「非ヒト霊長類の能動的推論における生成モデル獲得の皮質広域神経基盤」(JP23H04978)
■お問い合わせ先
【研究に関するお問い合わせ】
国立精神・神経医療研究センター 神経研究所 微細構造研究部
部長 一戸紀孝
東京工業大学
科学技術創成研究院
特任准教授 小松三佐子
【報道に関するお問い合わせ】
国立精神・神経医療研究センター 総務課広報室
東京工業大学 総務部 広報課
理化学研究所 広報室 報道担当
東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) 広報担当