発表のポイント
- COVID-19パンデミックのために発令された第一回緊急事態宣言が思春期海馬の一過性体積増加、3つの海馬亜領域体積および海馬の微細構造統合の増加と関連していることを示しました。
- 本研究は東京ティーンコホート・サブサンプル研究(pn-TTC)プロジェクトの大規模な縦断脳画像データセットを用いて、COVID-19パンデミックに関連するマクロおよびミクロ脳構造変化を体系的に調査する初めての試みです。
- 重大なライフイベントが思春期における海馬構造の発達に一時的な影響を与える可能性があり、ライフイベントによって海馬の可塑性と脆弱性がどのように働くのか、解明する手がかりになると考えられます。
概要
東京大学大学院総合文化研究科附属進化認知科学研究センター・蔡林(サイリン)特任研究員と小池進介准教授(東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) 連携研究者)、東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻・笠井清登教授(東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN) 主任研究者)らによる研究グループは、思春期脳発達に着目した大規模な磁気共鳴画像(MRI)データセットに非線形統計モデルをあてはめることで、第一回緊急事態宣言後における思春期の海馬と海馬亜領域(注1)の体積、および海馬の微細構造統合(注2)の変化を世界で初めて観測しました。先行研究と比較して人口の代表性、データの規模、海馬構造を評価する指標の多様性の点で新規性があり、この研究成果は今後思春期の海馬の可塑性と脆弱性の理解及び将来の大規模な自然災害等への備えに役立つことが期待されます。
発表内容
海馬の構造は非常にストレスの影響を受けやすいと考えられています。動物の研究では、海馬全体や、その亜領域の体積が急性または慢性のストレスの影響を受けることが示されています。一方、人間の海馬の体積の変化は通常、重大なライフイベント(注3)の影響を受けた人々を観察することで明らかになります。例えば、地震やテロ攻撃などの出来事は、一部の人々にトラウマ体験(注4)やPTSD(注5)をもたらし、その影響で海馬の体積が減少する傾向が見られます。COVID-19パンデミックに対する第一回緊急事態宣言は、「ステイホーム」に代表される、学校の閉鎖をはじめとした社会活動の制限でした(図1(c))。その結果、東京都の感染率を劇的に低下させました(図1(a)と(b))。しかしこのような、これまで経験したことのない重大な制約が人間の海馬構造にどのように影響するかについては、まだ体系的な研究が行われていません。特に思春期の子供たちは外部の出来事の影響を受けやすく、思春期の脳発達にパンデミックがどのような影響を与えたのかを知ることは非常に重要なテーマです。
そこで本研究チームは、思春期の健康・発達に関するコホート調査における神経画像・心理行動・ホルモン解析研究(population neuroscience Tokyo TEEN Cohort;pn-TTC)にある大規模な縦断データセット(図1(f))を用いて、第一回緊急事態宣言が日本で発令された後1年間の海馬のマクロおよびミクロ構造が、思春期の海馬発達とは独立して影響しているかを調査しました。pn−TTC研究プロジェクトの中での青少年は、この期間中にむしろ、抑うつ症状の軽減傾向を示していました(図1(d))。第一回緊急事態宣言終了後とMRI計測日の間隔を対数変換し(図1(e))、線形および非線形統計モデルを使用して、思春期の海馬構造変化(図1(g))の過程で、第一回緊急事態宣言の影響がどれほどあったのかを研究しました。その結果、緊急事態宣言後に計測された総海馬体積は大きく(図1(h)と(i))、3つの海馬亜構造の体積も増大傾向にあり、さらに海馬の微細構造の統合が強化されている傾向にあることがわかりました。
これらの結果は、第一回緊急事態宣言後、青少年のストレス軽減が海馬体積の一時的な増大と統合の強化に関連している可能性があることを示唆しています。これは今後、思春期の海馬の可塑性と脆弱性の理解及び将来の大規模な自然災害等への備えに役立つことが期待されます。
発表者・研究者等情報
東京大学 大学院総合文化研究科 附属進化認知科学研究センター
小池 進介 准教授
蔡 林(サイ リン)特任研究員
論文情報
雑誌名:JAMA Network Open
題 名:Hippocampal Structures Among Japanese Adolescents Before and After the COVID-19 Pandemic
著者名:Lin Cai, Norihide Maikusa, Yinghan Zhu, Atsushi Nishida, Shuntaro Ando, Naohiro Okada, Kiyoto Kasai, Yuko Nakamura, Shinsuke Koike*
DOI:10.1001/jamanetworkopen.2023.55292
URL:https://doi.org/10.1001/jamanetworkopen.2023.55292
研究助成
本研究は、日本学術振興会(JSPS)/文部科学省 科学研究費助成事業(JP22H05212、JP23H03877、JP23H02865)、日本医療研究開発機構(AMED)(JP18dm0307001、JP18dm0307004、JP19dm0207069)、科学技術振興機構(JST)ムーンショット型研究開発事業(JPMJMS2021)、および先進医薬振興研究財団からの助成金によって支援されました。また、本研究は世界トップレベル研究プログラム・東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)によっても支援されました。
用語解説
(注1)海馬と海馬亜領域
海馬は大脳辺縁系の一部であり、記憶形成、空間ナビゲーション、感情の調節に関与しています。海馬は歯状回、CA1などの異なる亜領域で構成されており、それぞれが専門的な役割を果たしています。
(注2) 海馬の微細構造統合
拡散テンソル画像という脳画像計測手法で得られる水分子の拡散の方向性と一貫性に関する情報を用いて、海馬の微細構造統合という指標を得ることができます。この指標は情報伝達の効率と関連しているとされています。
(注3)ライフイベント
ライフイベントは、個々人の生活において重要であり、しばしば変革的な出来事であり、その個々の幸福の様々な側面に深い影響を与えることができます。これらの出来事は肯定的でも否定的でもあり、通常、個人、社会、または職業的な生活において重大な変化を伴います。例としては、出産、結婚、離婚、愛する人の死、職業の変更、引っ越し、重篤な病気、教育上の節目、個人の目標達成 、そしてCOVID-19パンデミックや自然災害などの重大な世界的な出来事が含まれます。
(注4)トラウマ体験
地震や戦争被害、災害、事故、性的被害など、その人の生命や存在に強い衝撃をもたらす出来事を外傷性ストレッサーと呼び、その体験を外傷(トラウマ)体験と呼びます。
(注5)PTSD
PTSD(心的外傷後ストレス障害 Post-Traumatic Stress Disorder)とは、実際にまたは危うく死ぬ、深刻な怪我を負う、性的暴力など、精神的衝撃を受けるトラウマ(心的外傷)体験に晒されたことで生じる、特徴的なストレス症状群のことを指します。
問合せ先
東京大学 大学院総合文化研究科 附属進化認知科学研究センター
准教授 小池 進介(こいけ しんすけ)
東京大学 大学院総合文化研究科 広報室
東京大学 国際高等研究所 ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)広報担当